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今季スピードスケートW杯1000mで初優勝。
長野に続き、ソルトレークシティ五輪をめざす |
応援メッセージが届いています。
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外ノ池亜希
(とのいけ・あき)
1979年3月3日。長野県生まれ。169cm、65kg。B型。所属はアルピコ。スピードスケートの500、1000、1500mが専門。4歳でスケートを始め、小学校5年生で県の強化選手に。バレーボールの国体選手だった父親の影響で同じころバレー部にも入り、エースアタッカーとして北信越大会に出場。中学1年からはショートトラックのジュニア強化選手となり、94年のリレハンメル五輪にもう少しで出場できるところまで力をつけていた。東海大三高ではインターハイ1000、1500mで通
算4勝。高校2年の世界ジュニアは総合3位。社会人1年目の冬に1500mで地元の長野五輪に出場して16位
。2000年12月の長野W杯1000mで初優勝。2001年1月ドイツで行なわれた世界スプリントで総合4位
。家族は監督でもある父と、母、姉、兄の5人家族。愛犬はミニチュアダックスフンドのハッピー。
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長野オリンピックを目前に控えた97年11月。外ノ池亜希は立て続けに2度、1000mの日本記録を更新した。長野で生まれ育った彼女は、もっとも得意とするその距離で、地元開催のオリンピックに初出場することを夢見ていた。好記録を出したことでその夢が、明確に現実的な目標となってきたとき、選考レースである全日本スプリント選手権で外ノ池はふだんならありえない失敗をしてしまう。
「進路妨害」。その宣告の声に彼女は愕然とした。岡崎朋美と同じ組の1000mのレースにのぞんだとき、最初の200mでスピードに乗りきれず、うしろから早いペースで来た岡崎に接触しそうになってしまったのだ。18歳には重過ぎるプレッシャーが、容赦なく彼女にのしかかっていた。体調がよくない分、気負いすぎたと後悔したが、一瞬にして目の前にあったオリンピックは消えた。
が、外ノ池はその2週間後に、1500mのレースで出場権をもぎ取る。土壇場に追いつめられての起死回生の滑りで、失意のどん底から這い出し、夢を再度自力で引き寄せたのだ。長野オリンピックでは自己ベストを出しての16位
。周囲はその結果を「健闘」と称えたが、外ノ池自身には悔しさだけが残った。
「自分はメダルを目標に練習してきた。それが入賞すらできなかったなんて…」
ゴールと同時に、思いは4年後のソルトレークシティへ向い、新たな練習が始まった。
あれから約3年後の今季、長野オリンピックが行なわれた会場で、外ノ池はワールドカップ初優勝を成し遂げた。出場が叶わなかった1000mでのリベンジ。21歳の彼女は確実に成長していたのだ。
168センチの長身は、日本の女子選手の中ではひときわ目立つ。大きなストライドを生かしてのダイナミックな滑りは、パワーとスタミナでぐいぐいと飛ばす外国人選手にひけをとらない。
「大きい分、いろいろな面で時間がかかったんですよ」
彼女が4歳のころからずっとコーチしてきた父親の外ノ池信平監督は言う。
コーナリングなどの技術を体得するには、器用な小柄な選手の方が有利なのだ。が、子供のころから運動神経が抜群で、ショートトラックやバレーボールでも活躍していた彼女は父親の指導のもと、めきめきと頭角を表わした。
女子のスピードスケートといえば、北海道の強豪高校に進み、橋本聖子、岡崎、三宮らの富士急か、島崎京子の所属していた三協精機に就職するというのが、典型的なエリートコースであるが、彼女は地元の高校、地元の企業へと進み、父親と二人で独自の道を歩きながら強くなっていった。
ドイツで行なわれる世界スプリント選手権に出発する前の慌ただしい正月。標高1600mという蓼科に、外ノ池選手を尋ねた。茅野駅からタクシーに乗ったのだが、そのタクシー会社や系列のバス、ホテルの会社を経営しているのが彼女の所属するアルピコという企業だ。ドライバーに行き先を告げると、「外ノ池選手の活躍は社内報でいつも読んでいて、みんなで応援しているんですよ」とうれしそうに話をしてくれた。地元の選手を、地元企業が支援して、長野で行なわれる大会にはたくさんの地元の人たちが外ノ池を激励に訪れる。
世界スプリントは総合4位。強豪たちが必死に狙っている大会で、この結果
は快挙だ。地元のみなさんもドイツから届いた朗報を、我がことのように喜んでいるに違いない。ドイツの外ノ池選手からは試合前、イラスト入りのfaxが届いた。
「痛いくらい寒いので、もじもじ君みたいな薄いワンピースの下に、スパッツを2枚着て滑ってます」
注目されるほど燃えるという外ノ池選手。この特集を読んでぜひみなさんも、外ノ池ファンになっていただければと思う。 |
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